ほっこり、まったり、ふんわりな日々

食べるの大好き!寝るのが大好き!筋トレ大好き!旅が大好き!やりたいことは全部やる、職業「事務員 兼 母」のつぶやきです。

沖縄旅~ひめゆりの塔と10月10日

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自由な旅人ケイちゃんです。

沖縄南部を観光バスで巡る旅。

capydayo.hatenablog.com

平和の礎・平和祈念公園を訪問した後、バスはひめゆりの塔に向かいました。

私は広島県出身で原爆については幼い頃から学ぶ機会がありました。

道徳の時間には平和学習。

8月6日は毎年登校日で黙祷を捧げます。

しかし、日本で唯一地上戦があった沖縄については知識が乏しかったことを反省。

ひめゆりの塔

看護要員として戦場に動員され命を落とした「ひめゆり学徒隊」の慰霊の場所。

30分の滞在時間で資料館には入ることができませんでした。

しかし、慰霊碑の前でガイドさんからたくさんのお話を聞きました。

ここからはガイドさんのお話と私の個人的な意見となります。

女子の学徒隊は、ひめゆり以外にも、しらうめ、なぎらん、でいご、ふじ、ずいせん等、たくさんあったそうです。

ひめゆり学徒隊」は、はえばる陸軍病院に看護要員として動員されました。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で、看護の知識のない子どもです。

1945年5月末に米軍が首里の日本軍司令部に迫り日本軍は南部へ撤退します。

生徒たちも南部へ撤退することを決めました。

生徒たちの多くは、兵隊さんとおったほうが安全や。

守ってもらえると思っていたそうです。

歩ける患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、薬品などを背負い南部へと移動します。

重傷を負い途中動けなくなった兵隊さんに最後の食事を与えるのも彼女たちの仕事。

青酸カリ入りの配給のミルクを与え、最後の看取りまで行ったそうです。

与える側は辛く悲しい。

きっと与えらえる側も分かっていて飲んだのかと思うと胸が張り裂けそうでした。

ひめゆりの塔の手前にはガマ(鍾乳洞)がありました。

このガマの中で多くの生徒や教師が命を落としました。

米軍がせまり、片言の日本語で「殺さないからでてこい」の声が聞こえる。

しかし、当時、米軍に捕まると酷い仕打ちを受けると恐怖心を植え付けられていた為、誰一人従う人はいませんでした。

誰も出てこないガマにガス弾が投げ込まれ、中にいたほとんどの人は命を落としました。

奥の方にいて、たまたま生き残った生徒は、多くの遺体を踏みつけながら這い上がり逃げたそうです。

その当時のひめゆり達の気持ちになると、涙が止まりません。

ひめゆりの塔を訪問した後、ガイドさんがバスの中でお話ししてくれたことは、ご自分のおばあちゃんから聞いた戦争の話。

バスガイドになりたての頃、自分の仕事に活かせると思い、おばあちゃんに戦争の話を聞かせてほしいと言うたそうです。

おばあちゃんは「お前は戦争を思い出させるつもりか」と一切話してくれなかったそうです。

それ以来、戦争については一切触れないようにしていたんだそう。

コロナの終わり頃、おばあちゃんに会いに行くと「お前は、昔、戦争の話を知りたい言うとったよな」と。

おばあちゃんが話してくれたことは一つ。

早朝、いつものように畑仕事をしとったら飛行機が飛んどった。

日本軍じゃと思って「兵隊さん頑張れ」と手を振ったんじゃ。

そしたら、空から爆弾が降ってきた。

9人姉弟だったおばあちゃんたちは、みんなバラバラに走って逃げた。

おばあちゃんは、自分が面倒をみとった一番下の3歳の子を腰ひもで縛って背負って逃げた。

爆弾は空から次々と降ってきて必死で走って逃げた。

その時、警報は鳴っとらんかった。

転んだり、つまずいたり、ひっかかったり。

逃げる途中で、やっと警報が鳴った。

その時、町は既に火の海じゃった。

なんで最初っから鳴らしてくれんかったんか。

鳴らんかったから、みんな逃げ遅れた。

なんとか逃げ切って、やっとこさ、おぶっとった子を降ろした。

そしたらな、背中がぐちゃぐちゃじゃったんよ。

もう、ぐちゃぐちゃ。

いつ、そんなことになった?

必死で走っとって全然気づかんかった。

自分は、最後にどんな言葉をかけてやった?

逃げる途中、背中で泣き叫び「泣くな」と叱った。

それが自分がかけた最後の言葉じゃ。

9人のうち、生きて戻ったんは4人。

たったの4人。

背負った子を皆にみせた。

自分が背負わんかったら、こんなことにはならんかったかもしれん。

お前に話せることはこれだけじゃ。

その後、おばあちゃんが戦争のことを語ることはなかったそうです。

1944年(昭和19年)10月10日の十・十空襲

那覇は火の海、首里は火の海となりました。

これが沖縄戦の始まりだと言われています。

その後、バスガイドさんが、沖縄の歌を披露して下さいました。

取り出したのは三線(さんしん)。

三線が奏でる優しくあたたかい音色とガイドさんの歌声。

島唄

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た

くり返す悲しみは 島渡る波のよう

ウージの森で あなたと出会い

ウージの下で 千代にさよなら

沖縄の県花であるデイゴ

ひめゆりの塔にも大きなデイゴの木がありました。

デイゴの花は毎年咲くわけではなく、デイゴの花が咲き乱れるとその年は台風がくるという言い伝えがあるそうです。

花が咲き乱れたこの年に戦争と言う嵐がきたと思うと涙が溢れてきました。

戦争の悲劇を繰り返さないためにも、こうした歴史を学び、語り継ぐことの重要性を感じました。

日本人なら是非一度訪れてほしい沖縄。

日本で唯一地上戦が行われた場所。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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